第二回 チャップリン小げきじょう
映画というものを初めて意識したのは六歳の夏休みのことだ。
祖母の家に泊まりに行くと、NHKで放送していた『チャップリン小劇場』という番組を、祖母が私に観せてくれた。
それは、一週間か二週間だけ、番組名通り、チャップリンのサイレント時代の短編映画を連日放送する夏の特別番組だった。
もちろん、「今日、チャップリンをやるけど、観る?」と祖母が私に言った時、幼い私はチャップリンが何者なのか、いや、それがひとの名前であることすら知らなかった。けれど、その声が心なしか弾んでいたので、それが祖母自身の愉しみなのだと気づき、一緒に観る仲間として選ばれたことが誇らしく、迷わず「観る」と答えたのだった。
夕飯を済ませ、お風呂からあがると、祖母と私は、大きな和室のテレビの前に二組の布団を並べて敷いた。
家では許してもらえないのに、祖母は、寝転んだままテレビを観てもいい、と私に言った。
その上、天井から吊るされた照明の蛍光灯を消し、小さな豆球の灯りだけでテレビを観せてくれたのだ。
私はまだ映画館に行ったことがなかったから、それと結びつけることはなかったけれど、薄暗い部屋で観るハイコントラストのモノクロ映像は、昼間に観るカラーのテレビ番組とは明らかに違う、何か特別なものに感じられて、私は胸を躍らせた。
初めて観るチャップリンは、山高帽に黒いスーツ、黒いドタ靴を履き、真っ白な顔にちょび髭を生やしていた。
まるで人形のようだった。
梯子を上ったり下りたり、穴を掘ったり、その穴に落ちたりと大層忙しく、しかし、美しい女性が通り過ぎる時は瞼をしばたたかせてみせることを忘れなかった。
そして、小柄でいつもどこかおどおどしているのに、危ない!と思うと、ひょいっとそれらをかわし、大男に叱られていたと思うと、機転を利かせて彼らをぎゃふんと言わせた。
きびきびとした動きと繰り広げられるドタバタがおかしくておかしくて、私はお腹を抱えて布団の上を笑い転げた。
こんなに面白いものがあるのか、と思った。
映画というものを他に知らなかったということもあるだろう、しじまに響く鐘の音の如く、チャップリンは強烈な印象を私に与えたのだった。
それから毎晩、『チャップリン小劇場』を観た。
食事をしていても、絵を描いていても、祖母と買い物に出かけても、私の小さな頭はチャップリンのことでいっぱいだった。
時計を見に行っては、チャップリンまであと何時間だ、とそればかり数えていた。
数日後、迎えに来た母には、「チャップリンが観たいから帰りたくない」と頑固に言い張り、放映が終わる頃、もう一度迎えに来て欲しいと頼み込んだ。
考えれみれば、NHKの番組なのだから、家でも観ることができたのに、私は、チャップリンは祖母が観せてくれるものと思い込んでいたのだ。チャップリンという名前も良かったのだと思う。
その音の響きは覚えやすく、何度も口にしたくなるような魅力があった。
「アイス食べたい」というときの“アイス”だとか、「今日はテレビでムーミンをやる日」の“ムーミン”だとか、「パンダを観に行きたい」の“パンダ”と同じ、子供を夢中にさせる何かをその響きは持っていた。
その時、まだチャップリンは生きていたはずだけど、私の中で、彼は完全に実在しないヒーローやおもちゃと同じ枠の中にいたのだ。
それほどまでに私を熱狂させた『チャップリン小劇場』も予定通り、ほどなく終了し、私は迎えに来た母に連れられ、祖母の家を後にした。
チャップリンがいかに面白いか、私は母に説明をした。チャップリンを観たことのない弟や妹にも。
劇場という漢字が書けなかったので、日記には、「チャップリン小げきじょう」と書いた。
今度はいつチャップリンを観ることができのだろう。
考えてみたところで、家庭用ビデオもDVDもない時代、子供に見当がつくはずもない。
万が一と思い、時々新聞を広げてみた。
しかし、その夏、テレビ欄に「チャップリン」の文字が再び載ることはなかった。
* * *
土曜の夜、ふと思い立ち、チャップリンの短編映画『給料日』を観た。
あの頃、私が、くたびれたおじさんだと思っていた男は、記憶の中の印象よりもずっとずっと若かった。
あのテンポのいいアクションは、フィルムの逆回しや早回しを使って作られていた。
大人のいやらしさだろう、なるほど、こういうことだったのか、と、したり顔で頷く自分が心の中のどこかにいる。
だけど、だからといって面白くないかというとそうではないのだ。
CGに慣れた目にもチャップリンの動きは新鮮で、やっぱり驚かされて、布団の上を転げ回らないにしても、私はコーヒーを片手にくすくすと笑っているのである。
不思議に思う。
鏡を覗けば、髪の毛だって肌だって、随分前に輝きはどこかに置いてきた。
それなのに、あの頃といま、私は同じシーン、同じアクションに笑っている。
私の体の中には、いまだ六歳の私が住み続けているのだろうか。
もしも、そうなのだとしたら、私のいったい、どこが変わって、どこが変わらなかったのだろう。
残ったものと消えたもの。
時々そのことが無性に知りたくなる。
知ったからどうなのだ、そう思いながらも。
(終)